運命の1993年1月・・・
  オーストラリアの永住権が取れたのは、1993年の1月だった。
申請したのが学生ビザで滞在した後 日本に帰国し、三田のオーストラリア大使館にて1992年の10月の始め。「本当に申請するのですか?」 「どれくらいかかるか、わかりませんよ。」と言われた。冗談だと思ったのかな?何と言っても永住権を取ることは厳しいと言われていた時期だったから。後でわかったことだが、1993年のビザ発給数は、過去最少だったらしい。

パスポートに貼られたビザを見て、実感が涌いてきた。これでオーストラリアにずっといれる。夢が実現したってこういうことかな!?反面、本当に海外移住してしまうのだろうかと問いかけてみたり…。
   
オーストラリアにやって来た理由
  そもそも私たちがオーストラリアに来た理由というのは、第一にまこ(夫)の小さい頃からの憧れ&夢。初めての海外旅行が新婚旅行で、オーストラリア。これは、まこが段取りをつけて、夢のオーストラリア行きハネムーンとなった。私は、オーストラリアってどこ?という程度で、オーストラリアのことなど知らなかった。新婚旅行では、ゴールドコースト、シドニー、そしてファーム(Goulburn)に2泊ずつ滞在し、生まれて初めての一番長い旅行を味わった。あの頃は、外国に来たんだなあという実感が それはそれは大きかった。それこそ、今のように日本人も多くないし、もちろん日本語を見るようなことはなかったと思う。「新婚旅行で気に入ったから来たの?」とか、「そのまま いたの?」などと聞かれたことがあったけれど、答えはNO。そりゃ新婚旅行で来て魅せられたことも多かったけれど、どこに<海外移住>なんて考える新婚夫婦がいる!?海外はやっぱり遠いし、ましてや住もうなんて思うわけない。まこは、半年後の転職が決まっていたし、私も仕事をしながら主婦という ごく普通の若夫婦だったもの。ただ、まこは転職前の数日間の休みに、オーストラリア政府観光局に行ったらしい。そこで運命の人と出会ってしまった(ちょっとオーバーだったかな?!)。
   
それから5年…。
 

30歳の時になぜ こんな話しが出たのかは全く不明。子供は出来なかったけれど、2人で楽しんでいたし、ゴルフも行った。特に何の不自由もなく毎日を過ごしていた。
3つの選択は、いつごろから2人の会話に出たのだろう?私が不妊の検査をしたあと?その3つの選択とは…

1.まこの実家に二世帯住宅を建てる 
2.ゴルフ会員権を買う 
3.オーストラリアに移住する
 

1と2には、それは やめようと言うのに十分な理由があった。
1は、もちろん子供が出来なかったこと。子なし共働き夫婦で、わざわざ実家に二世帯住宅を建てることもないよね。実家の両親は孫を待っていたと思うから。

2は、実際にはあまりシリアスに考えなかったと思う。でも、28歳頃から始めたゴルフにはまっていたし、月に1回 まこの先輩たちと一緒にラウンドしていた時は、会員権も大きな魅力だった。結構いい生活をしていたと思う。まこの会社の寮であったけれど、渋谷区に住み、職場まで通勤時間30分という近さ。ちょうどゴルフ会員権を買った友達がいたので、このオプションも出たけれど具体的に話しが進むことはなかった。

3は、うわー、いいなあー、やりたいなあーと半分 夢のようなオプションだったけれど、まこが以前 出会った運命の人のことを思い出し、思い切って AIR MAILを出した。これがスタートのきっかけ。この時点では、3の夢のオプションを選んだことになったのかな!?AIR MAIL の書き方なんて、小学校か中学校で習っただけで、初めての経験。ちゃんと届くか不安だった。オーストラリアに AIR MAIL を出したことなど すっかり忘れていた頃、英語書きの手紙がポストに入っていた。「えっ?何これ?中島さんから?」 「わぁー!本当に返事が来た!」 という驚きと感動があった。それには、中島さんがシドニーで日本食レストランを経営していること。夫婦2人、もしその気なら1年間 面倒を見てもいいこと。シドニーで1年間 暮らすにあたって、最低限 必要になる車、学校の費用、そして生活費のこと等が書かれていた。この手紙で<夢>が少しずつ現実に近づいて来たのを感じた。

まこは、ワーキングホリデーのことを知っていたらしいが(私は知らなかった)、当時 年齢制限が25歳まで。私たちがオーストラリアに1年住むには、学生ビザを取って、英語の勉強をするという方法しかなかった。中島さんは、知人が英語学校の校長(経営者だったんだろうなあ!?)を知っているから、その学校の入学許可証を取って、学生ビザを申請するよう段取りをつけてくれた。授業料を払い、入学許可証が届くのを首を長くして待っていたのは1991年の5月。とにかく、仕事を辞めてオーストラリアに行こうと思い始めたのもその頃だったと思う。何か新しい事が必要だったのかな。遠い海外、遥か彼方のオーストラリアがだんだん近くに見えてきた。
つづく…。

   
  2003年12月21日/文世記
   
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