30歳の時になぜ こんな話しが出たのかは全く不明。子供は出来なかったけれど、2人で楽しんでいたし、ゴルフも行った。特に何の不自由もなく毎日を過ごしていた。
3つの選択は、いつごろから2人の会話に出たのだろう?私が不妊の検査をしたあと?その3つの選択とは…
1.まこの実家に二世帯住宅を建てる
2.ゴルフ会員権を買う
3.オーストラリアに移住する
1と2には、それは やめようと言うのに十分な理由があった。
1は、もちろん子供が出来なかったこと。子なし共働き夫婦で、わざわざ実家に二世帯住宅を建てることもないよね。実家の両親は孫を待っていたと思うから。
2は、実際にはあまりシリアスに考えなかったと思う。でも、28歳頃から始めたゴルフにはまっていたし、月に1回 まこの先輩たちと一緒にラウンドしていた時は、会員権も大きな魅力だった。結構いい生活をしていたと思う。まこの会社の寮であったけれど、渋谷区に住み、職場まで通勤時間30分という近さ。ちょうどゴルフ会員権を買った友達がいたので、このオプションも出たけれど具体的に話しが進むことはなかった。
3は、うわー、いいなあー、やりたいなあーと半分 夢のようなオプションだったけれど、まこが以前 出会った運命の人のことを思い出し、思い切って
AIR MAILを出した。これがスタートのきっかけ。この時点では、3の夢のオプションを選んだことになったのかな!?AIR
MAIL の書き方なんて、小学校か中学校で習っただけで、初めての経験。ちゃんと届くか不安だった。オーストラリアに
AIR MAIL を出したことなど すっかり忘れていた頃、英語書きの手紙がポストに入っていた。「えっ?何これ?中島さんから?」 「わぁー!本当に返事が来た!」 という驚きと感動があった。それには、中島さんがシドニーで日本食レストランを経営していること。夫婦2人、もしその気なら1年間 面倒を見てもいいこと。シドニーで1年間 暮らすにあたって、最低限 必要になる車、学校の費用、そして生活費のこと等が書かれていた。この手紙で<夢>が少しずつ現実に近づいて来たのを感じた。
まこは、ワーキングホリデーのことを知っていたらしいが(私は知らなかった)、当時 年齢制限が25歳まで。私たちがオーストラリアに1年住むには、学生ビザを取って、英語の勉強をするという方法しかなかった。中島さんは、知人が英語学校の校長(経営者だったんだろうなあ!?)を知っているから、その学校の入学許可証を取って、学生ビザを申請するよう段取りをつけてくれた。授業料を払い、入学許可証が届くのを首を長くして待っていたのは1991年の5月。とにかく、仕事を辞めてオーストラリアに行こうと思い始めたのもその頃だったと思う。何か新しい事が必要だったのかな。遠い海外、遥か彼方のオーストラリアがだんだん近くに見えてきた。
つづく…。
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